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協会創設

協会創設については、2008年に発行された「日本ビジュアルマーチャンダイジング協会創立20周年記念誌」に名誉会員であった古畑多喜雄氏が協会前史として当時の経緯を執筆しておられますので、ここにその記事を記録として転載いたします。

協会設立までの記憶  古畑 多喜雄

今年は、VMD協会が出来て20年になると云う。
VMD協会と深い関係があるDDA・現DSA(日本ディスプレイデザイン協会・現日本空間デザイン協会)ができたのが1963年で、当時はまだVMDという言葉は無かった。それから、24年たって協会が出来たのだが、なぜ誕生したのか、その要因を探ることにする。
1987年前後のことだったと思うが、展示会や、展覧会などのディスプレイで多忙な時だった。
私の記憶が「そんな気がする」と勝手に増殖しているかも知れないので、もし間違っていたら許してもらいたい。

当時、屋外広告関係で、幅広い活動をしていた「日広連」が労働省職業能力開発局より、広告技術分野の技能士を創設すべく、屋外広告はもとより、ディスプレイまで拡大し、協力を求められていた。
しかしディスプレイは(主題を伝達させるための空間演出)であり、その範囲はかなり広く、いろいろと模索しているなかで、デコレーターという職能が目に留まった。
技能士のライセンスに関しては、日広連には学識経験者もいたが、デコレーターは分野が全く違うので無理だと判断した。
デコレーターの為の新しい協会が必要だということだ。

ある日、連合会に関係のある人から、「デコレーターの協会を創りたいが、どうすればよいだろうか」と相談を受けた。

丁度その頃、店舗演出に深くかかわっていた、佐藤昭年さんにも同じような問い合わせがあったらしい。

デコレーターは商品知識を主体とした、ショーイングのプロで、その作品は、装置や器具などを使わず、商品だけの構成で、横に長い大きなショーウィンドウを、見事にまとめあげたピンワークのテクニックの凄さを私は知っている。
さて、当時活躍していた主なデコレーターは井上富士男、後藤艶子、大森俊子、大阪の長部幸さんなどをあげることが出来る。

ともかく、井上富士男さんに連絡を取った。彼はしばらく考えていたが、「デコレーターだけを集めても意味がない、これからはむしろ、私達に仕事を提供する立場の人達も入れないとだめだ」と云う。 彼の云う立場の人とは、昨今のマーチャンダイジング(MD)に関連した職能のことらしい。
まず、各デパートの担当者をセレクトしたが、そのトップを決めるのが、かなり難しかった。
そこで、改めてMDにも精通している佐藤さんを中心に、井上さん、後藤さん、宮崎さんなどの主力メンバーによって「銀座和光」の八鳥治久さんを理事長に推挙し、協会の要になる専務理事を佐藤さんにお願いすることによって、VMD協会が出来た。
と同時に、デコレーターとしてのライセンスを決めなければならない。
そのため、赤坂にある中央職業能力開発協会へ、井上、後藤、佐藤と私が中央検定委員として再三の打合せの結果、デコレーターの名称は、労働省(当時)の意向で「商品装飾展示技能士」となり、1級と2級が設定され、労働省認定の国家資格となった。
協会誕生のきっかけは、まずそこにあったが、当時、能力開発とともに、経営戦略のキーワード、コミュニケーションの場として、国際化への対応性が求められていたことも大きな要因となっていた。
当時の流通ジャーナリズムには、マーチャンダイジングについでにビジュアルマーチャンダイジングという外来語が登場していた。その結果、MDという和製語とVMDなる和製略語も定着していった。
ビジュアルマーチャンダイジングは我が国でも1960年代より専門書・雑誌に紹介され様々な解釈と理解が行われた。このことはアメリカでも同様であり、当時出版された図書にも解釈のゆらぎが見える。
やがて日本では米国社によるマーチャンダイジングとビジュアルマーチャンダイジングを連立させた事例が目の当たりになる。
これら国際化を目前にして労働省(当時)による国家検定を支援するビジュアルマーチャンダイジング関係者のアイデンティティが希求される。前出数人の提唱は、その後設立まで数年にわたり開催された設立趣旨説明会を重ねるに従って93名の賛同者となっていった。

いずれにせよ、当時VMD協会誕生のニュースは、関連分野に大きな波紋を投げかけた。

( 古畑多喜雄氏 2015年 没 )


日本ビジュアルマーチャンダイジング協会創立時の趣旨文より


設立の趣旨

ビジュアルマーチャンダイジング。文字通り商品計画・商品政策の視覚表現という概念は、いま経営戦略のキーワードの一つとして、略語VMDの通用が示すように定着を見せたといえます。
その業務に携わる人は、ますます専門化を期待され多様な情報・技術の交流研鑽が不可欠のものとなっています。このような状況にあって将来の展望を考えるとき、人材の育成と能力の開発、技術の向上こそが関連分野と社会の繁栄に貢献できるとの確信に至りました。また、より国際化への対応が求められる今日、世界と交流できるVMDへの期待に応えその責務を果して行くことが時代の要請でもあります。この認識に立ち相互の情報・技術・理論を錬磨発展創造するコミュニケーションの場として協会は創立されました。

活動の計画
時代の先端を生きる人々が、専門領域を越えて多様な交換を行い直面する共通の課題を追求することは大いに意義のあることです。また今日のように情報と技術の急激な変化を直視するとき、こうした機会こそ問題の糸口を得るためにも不可欠のものと考えます。
各会員の持つ高度な情報や能力や技術は信頼を積み重ね、新しい展開展望を得ることにつながるでしょう。
1987年創立の年は、VMD(ビジュアルマーチャンダイジング)という視点で次の活動を開始いたします。

1 VMD協会としてVMDの定義を追求。(1987年における定義)
2 研究活動 能力開発活動の推進。(カレントトピックス、基礎・技術研究)
3 コミュニケーション紙・誌の発行。(会員人言録)
4 VMDイベント開催準備推進。(たとえばVMDとエンタテイメント)
5 異種交流の推進。(オープンな情報ステーション)
6 国際交流の推進。(まず東と西のふれあいから)
7 人材育成のための諸活動の推進。(社会のニーズに応えて)


協会のロゴとイメージカラー  藤井 秀雪

協会が発足して2年目の7月28日、専務理事の佐藤さんから、協会の英文字と日本文字のロゴとイメージカラーを制定したいので、誰かデザイナーを紹介してほしいと相談を受けました。そしてロゴとイメージカラーを各種ステーショナリーや名刺のデザインに落とし込んで欲しいとの依頼でした。
その時、何人かグラフィックデザイナーの顔が浮かびましたが、最も親しかった石浜寿根氏を推薦することにしました。その結果、ロゴのデザインとしては、極めて低予算な依頼であったにも関わらず、石浜氏から快諾を得ることが出来たのです。
その当時七彩の広報を担当していた筆者は、同世代の新進ファッションデザイナーやインテリアデザイナー、ヘアメークアーチスト、現代美術作家等、多くのクリエーターとの交流があり、石浜氏もその一人でした。石浜氏は、若くして田中一光デザイン事務所から独立し、北青山にデザイン事務所を開設していました。1988年11月29日発行のVMDレポートには、有楽町西武やアクシスの個展で話題を呼び、角川書店のプロモーションでも注目された気鋭のデザイナーと紹介されています。
11月5日開催の理事会でロゴのデザインを決定。新しいロゴを封筒、名刺に反映したデザイン案を12月の理事会に提出。そして翌年の1989年4月22日に開催された第3回総会で新ロゴとイメージカラーは正式承認されました。総会では、新しいロゴタイプの紹介を兼ねたテレフォンカードが参加者に配布。石浜氏は総会後のパーティの挨拶の中で「力強さ、行動感を示すため、直線鋭角の書体を作成しました」とデザインコンセプトを語りました。
こうして生まれたロゴとイメージカラーですが、30年近い時の経過とともに協会の顔としてすっかり定着しました。 

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